<中国商戦攻略シリーズ>第N弾

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苏筱加 [离线]

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1楼

 三十六計篇
 兵法は、いわゆる戦い方の術だけでなく、□□、外交、経済、商業まで幅広く使え
る技である。正直に真正面からぶつかるだけでは、リスクが大きい。この「三十六
計」は兵法の基本中の基本で、実際は複数の兵法を組み合わせたり、裏技を使ったり
している。
 「三十六計」は文字道りに、36個の計略がある、本年度より、毎月3計(or 4計?)
ずつ、順番に「中国マンスリー」に連載し、本物の「三十六計」を皆様に紹介したい
と思う。日本にも知られる中国の諺がある―「三十六計逃げるにしかず」。それは既
に全ての策(三十五計)が尽くした後、最後の最後の計略でもある。
 
(三十六計全目録: 6×6)
一 勝戦の計
     瞞天過海、囲魏救趙、借刀殺人
     以逸待労、趁火打劫、声東撃西
二 敵戦の計
     無中生有、暗渡陳倉、隔岸観火
     笑裏蔵刀、李代桃橿、順手牽羊
三 攻戦の計
     打草驚蛇、借屍還魂、調虎離山
     欲擒姑縦、抛磚引玉、擒賊擒王
四 混戦の計
     釜底抽薪、混水摸魚、金蝉脱穀
     関門捉賊、遠交近攻、仮道伐カク
五 併戦の計
     偸梁換柱、指桑罵槐、仮痴不癲
     上屋抽梯、樹上開花、反客為主
六 敗戦の計
     美人計、空城計、反間計
     苦肉計、連環計、走為上
 
  第一章  勝戦の計(上)
 
第一計 瞞天過海
白昼は公然とし、天(皇帝)を欺いて海を渡るの意。(出典:「永楽大典・薛仁貴征遼
事略」)
貞観十七年、唐太宗が三十万大軍を導いて東征、しかし海を怖がって行軍がつい止ま
ってしまった。そこで薛仁貴という将軍が一計して、巨大な船に土を盛り、家を作っ
て、兵士たちを民間人を偽装させ、ここは宴会場だと騙して皇帝を招いた。そして皇
帝が安心している間に海を渡ったという。
後漢時代、山東の孔融が黄巾反乱軍に包囲され、太史慈が包囲を突破して平原にいる
劉備に救援を求めようとした。
そこで鞭と弓を持ち、的を持たせた騎兵二騎を従え、門を開いて出たところ、包囲網
の内外で見ていた者はそれをみると驚き、戦闘の構えまでした。しかし、太史慈は城
下の塹壕の中に入り、的を立てて射た。射終わると、戻った。次の日もまた同様であ
った。包囲側は、立って見ていたり、寝たままだったりした。その後も同様にする
と、もう起きてくる者もいなくなった。太史時は馬をむち打っていきなり包囲を突破
した。敵が気づいたときには、もはや数里も遠くに行った後だった。その後、黄巾の
賊兵は援軍に駆けつけた劉備軍に蹴散らされました。(<三国志>より)
教訓:「備周則意怠、常見則不疑。」
解釈:備えが周到であれば意識がたるむとなり。いつも見ていることは疑わない。
 狼少年の話に少し似ている。つまり、偽の行為をして真の行為を隠す、それよって
敵を騙したり、麻痺したりする偽装戦術。更に偽装に騙された敵に不意撃ちを加える
と一本勝ちの確率が極めて高い。陰謀作為は、外れた時や秘密の場所で遂行してはな
らない。普段見慣れている物は、気付かれにくいものである。当り前、常識と考えて
いる事にこそ、嘘が隠されているものです。ある事について関心を持った時、一度そ
れについての常識を疑ってみるのも大切。
 
第二計 囲魏救趙
趙が魏に攻められているとき、斉は直接趙を救援するのではなく、魏の首都を包囲す
ることによって攻撃をやめさせた。(出典:「史記・孫子呉起列伝」)
斉の国が趙の国を救ったときの話、軍師の孫賓は将の田忌にこう言った。
「からまった糸を解くときにはむりに引っ張らないよう。闘いから救おうとするなら
直接加わってはいけない。要所を突き、虚を突いて、形勢を崩してやれば、おのずか
ら解けていくものだ」 (<史記・孫子呉起列伝>)
田忌はその計策を実行し、直接に趙を救援するのではなく、魏の首都を包囲すること
によって攻撃をやめさせ、趙を救った。
その他、三国時代、関羽が魏の樊城を包囲した際、呉の呂蒙は背後から関羽の基地荆
州を襲撃・制圧し、魏軍を救った有名な話もある。
教訓:共敵不如分敵。敵陽不如敵陰。
解釈: 敵を集中させるより、敵を分散させるほうがいい。敵と正面(陽)からぶつ
かるより、敵の裏(陰)に策略で当たるほうがいい。
 「治兵如治水」、兵を治めるのは水を治めるようなもの。「鋭者避其鋒」、精鋭に
対しては、水の流れを導くようにその矛先をかわして避ける。弱敵に対しては、堤を
築いて流れをふさぐように、相手の弱点をふさいでしまう。
 
第三計 借刀殺人
刀を借りて人を殺す。自分は直接手を下さず、第三者に敵を攻撃させる。
春秋末、強国の斉の君主・斉簡公は弱国の魯を攻めようとした、孔子の弟子、子貢が
魯を防衛するため、使者として斉を乱し、斉を対等勢力を持つ呉に仕向けさせた、同
時に呉、趙両国と連合軍を組み、斉を破った、その後、更に晋国を利用し、斉に勝っ
て強大となり、自国に脅威となった呉と闘わせる。最終的には、呉の軍力も減り、魯
国をせめるところではなくなったという。魯は最小限の損失で、まんまと亡国の運命
から逃れた。 
教訓:敵已明、友未定、引友殺敵、不自出力、以損推演。
解釈:敵がすでに行動を起こしていて、友軍がまだ態度を決めていないなら、友軍を
引っ張って敵を殺させ、自ら力を出さない。これが「易経・損卦」の「下を損して上を
益す」である(損卦がひっくり返ると益卦に変わる)。 
この計は中国歴史上では官僚同士の間で相互利用、権力闘争で良く使われているとい
う。
敵対状況はすでにはっきりとしており、しかも別の一勢力が発展しつつある。この勢
力の力を借りて敵を倒させるべきだ。この計では「殺人」と書いてるから物騒に見え
るが、要は自分の実力を保った上、第三者の力を利用し、若しくは敵同士内部の摩擦
を利用し、「漁翁の利」を得る事。つまり、「兵不血刃」――戦わずに勝つ、自分の
リスクを最小限に収まるという事。それは柔道の極意でもある。むしろ、敵にこの手
を使われて、内乱で自滅する事のないよう気をつけねばならない。
 
第四計 以逸待労
 
兵を休ませ、敵を疲労させてから攻撃する。(出典:<孫子・軍争篇>)
後漢時代、黄巾反乱軍が陜西省の陳倉を攻めた。
しかし援軍の皇甫嵩は、陳倉は簡単に落ちる城ではないと判断し、反乱軍が疲れるの
を待った。
やがて疲れて敗戦の色が濃くなった反乱軍は撤退を始めるが、その機を逃さず攻撃を
して、反乱軍を壊滅させた。
教訓:困敵之勢、不以戦、損剛益柔。
解釈:敵の勢いを削ぐためには、戦わなくてもいい。強敵を疲れさせれば、弱者の利
益となる。
(『易』損卦――今盛んな攻撃側も、疲れやすく、敗北の要素を持っている。今劣っ
ている防衛側は、かえって勝利の要素を持っている)
『孫子』にはこうある。「先に戦地に着いて敵を待つ者は楽であり、遅れて戦地に至
って戦いに臨む者は苦労する。そのため、戦いのうまい者は、人をはめるのであっ
て、はめられはしない」
孫子が<孫子の兵法>で論じているのは、勢いについてである。つまり、土地を選ん
で敵を待つということではなくて、少数で多数を牽制し、不変をもって変に応じ、小
変をもって大変に応じ、不動をもって動に応じ、小動をもって大動に応じ、主導権を
握って周囲の情勢に応じるところにある。(<孫子・虚実篇>より)
 同じく、中国歴史上では陸遜の「火攻」で劉備の連営を焼く、黄忠の「定軍山の戦
い」で夏候淵を斬る、李牧の対匈奴の「雁門防衛戦」、孫賓の馬陵道でホ涓を斬るな
ど数が数えないほど名戦例がある。
 つまり、自国にとって楽な、かつ慣れた地理条件を利用し、事前準備を整い、鋭気
を溜まったまま、敵を疲労戦術にはめる方法である、現代ではベトナム戦争でのアメ
リカ、そしてアフガン戦争での旧ソ連はこの計にはめられて莫大な損失をこむったと
いう。某日本企業のある戦闘例を挙げてみよう―― 
その企業は海外の来訪客先の日程を事前に掌握し、到着した時点、一刻も休ませず
に、観光地と飲み屋に連れていって、連続数日間の接待を行った。相手を十分疲労さ
せてから、日本滞在最終日にいきなり正式な商談を開始する。その結果、海外客は交
渉する気力さえなく、容易に全ての条件を呑み、大負けとなった。
 
参考文献
<兵法三十六計>
<孫子兵法>
<孫賓兵法>
<六韜・三略>
<三国志>
<十八史略>
<史記>
<易経>

2014/6/10 22:25:25
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